上山市、そこには城があった「楢下城」・構造や役割は…
上山市の南東、江戸時代に羽州街道の宿場町として栄えた楢下。須川と金山川に挟まれた断崖絶壁の地に、楢下要害と呼ばれる山城があった。戦国時代(十五世紀末)に長沼信濃守が築いたとされ、四重の空堀と三重の盛土に囲まれた山城で、「楢下要害」や「楢下楯」とも呼ばれていた。
集落の東部「台の上」と呼ばれている、40aほどの平坦地に本丸があったとされる。東西は須川と金山川に挟まれ、地の利を活かした断崖絶壁の場所である。
天正年間(1573~1585)の頃、伊達(長沼)氏と最上氏の争いに頻繁に利用され、最上軍勢の攻略に対峙した要害であった。激しい攻防の末、十六世紀前半に楢下城は最上氏に攻略され、楢下駿河守貞光によって出羽・陸奥両国の御境目預かりになったとされている。
伊達家の侵攻の砦となったり、最上家の防御の最前線としての砦となったり、両家の攻防の真っ直中に置かれていた楢下城。元和八年(1622)、上山藩が置かれてからは戦乱の世も終わりを告げ、役目を終えた。
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